いつかのメリークリスマス
我が家の愛犬が、家族の記憶の中にのみ住み始めるようになって、一年経ちました。
それまでは一緒何年過ごした、何回目の季節だって数えてましたが、
これからは、君がいなくなってもう何年経ったって数えていくわけです。
もう、愛犬がいない風景が当たり前になりつつあります。
たまに、飾られた写真なんかを見て思い出す程度です。
私よりも、飼っていた両親のほうが悲しみは大きかったようで、しばらくは愛犬の話をまともに出来ませんでしたから。
私の場合、別れるときに辛い、ほぼ確実にわたしは愛犬を見送る側にあるんだって思うと、怖くて、(いなくなるのがじゃなくて、そうなったときの心の痛みに我慢できそうもなかったから)なんか一歩距離置いて両親の可愛がりぶりを見てました。
全く愚かな事です。
どうして先の不幸に怯えて、今、目の前にある大切なものをないがしろにしてしまったのか。
別れを恐れ拒むから、出会いを軽んじてしまう、この悪循環止めなきゃと思いつつ、また一年経っちゃったか。
ともに生きている時間を大切にし、愛し続けていれば、もしかしたら別れが来たとしても、違う形で受け入れられたかもしれないのにね。
やっぱ真っ先に自分守っちゃうんですね、傷つかないように。
どんなものにも終りがある。
それが望んだ形であれ、望まぬ形であれ。
時間というのは兎に角、無理やりにでも物事を終わらせるために、人が作った概念なんですから。
ただ、だからこそ意味があり、価値があるんでしょうね。
始めないことには敗者にもなれない、って誰だかが言ってました。
負けるのは嫌だけど、放棄するより、それが最初から無かったものにするよりは、結果を出せて終われたことの方がいいってことなのかな?
たぶん無駄にはならんだろし。
無意味では絶対無いはず。
いなくなったものは遠くにいるようで案外近くにいるもの、姿かたちが変わっててただそれに気づかないだけ。
そう考えると、なんかそれほど寂しいってことは無いのかも。
色々と教えてくれた我が家の愛犬にハッピークリスマスの祈りを捧げ、ふと考えてました。
独りでね。
こんな風に思うのもやっぱクリスマスだから???
今宵は、死者の復活祭だから???
だからさ、クリスマスはイエスの誕生日じゃないんだって。
我が家の愛犬が、家族の記憶の中にのみ住み始めるようになって、一年経ちました。
それまでは一緒何年過ごした、何回目の季節だって数えてましたが、
これからは、君がいなくなってもう何年経ったって数えていくわけです。
もう、愛犬がいない風景が当たり前になりつつあります。
たまに、飾られた写真なんかを見て思い出す程度です。
私よりも、飼っていた両親のほうが悲しみは大きかったようで、しばらくは愛犬の話をまともに出来ませんでしたから。
私の場合、別れるときに辛い、ほぼ確実にわたしは愛犬を見送る側にあるんだって思うと、怖くて、(いなくなるのがじゃなくて、そうなったときの心の痛みに我慢できそうもなかったから)なんか一歩距離置いて両親の可愛がりぶりを見てました。
全く愚かな事です。
どうして先の不幸に怯えて、今、目の前にある大切なものをないがしろにしてしまったのか。
別れを恐れ拒むから、出会いを軽んじてしまう、この悪循環止めなきゃと思いつつ、また一年経っちゃったか。
ともに生きている時間を大切にし、愛し続けていれば、もしかしたら別れが来たとしても、違う形で受け入れられたかもしれないのにね。
やっぱ真っ先に自分守っちゃうんですね、傷つかないように。
どんなものにも終りがある。
それが望んだ形であれ、望まぬ形であれ。
時間というのは兎に角、無理やりにでも物事を終わらせるために、人が作った概念なんですから。
ただ、だからこそ意味があり、価値があるんでしょうね。
始めないことには敗者にもなれない、って誰だかが言ってました。
負けるのは嫌だけど、放棄するより、それが最初から無かったものにするよりは、結果を出せて終われたことの方がいいってことなのかな?
たぶん無駄にはならんだろし。
無意味では絶対無いはず。
いなくなったものは遠くにいるようで案外近くにいるもの、姿かたちが変わっててただそれに気づかないだけ。
そう考えると、なんかそれほど寂しいってことは無いのかも。
色々と教えてくれた我が家の愛犬にハッピークリスマスの祈りを捧げ、ふと考えてました。
独りでね。
こんな風に思うのもやっぱクリスマスだから???
今宵は、死者の復活祭だから???
だからさ、クリスマスはイエスの誕生日じゃないんだって。