炎(ホムラ)

 成人のということで晴れ着姿の人や紋付き袴の人をあちこちで見ました。
 ニュースでは式典会場で大暴れなんてバカなニュースは流れていませんでした。
 さて近所の田んぼでは夕方ころから火をくべているのが見られました。
 今日は正月のお飾りや書き初めを近所から持ち寄って燃やすどんど焼きの日でもあります。
 幼いころは、母が作ってくれた色取り取りの団子を竹ざおにくくりつけて焼きに行ったものです。
 竿を両手で持って火のそばに行くものですから、顔が熱くて熱くて。
 この火で書き初めを燃やすと字が上手くなるとか、お団子を食べると風邪ひかないなんて、どっから何の根拠があって言っているのか分からないようなこと聞かされなんも疑わずにアツアツのお団子に砂糖醤油付けて食べたりしてました。
 私が住んでいる場所でしたら、探せばまだまだ田んぼも残っていますが、東京の方では火災の原因になるからと早々に廃れていったとか。
 炎を燃やしその熱さを身に実感できる機会を失ってしまうなんて、ちょっチ寂しいかも。
 今よりも闇が多かった昔は闇の中で盛大に燃え上がる炎に何か特別な想いをはせたことでしょう。
 いえそれは今もかな?
 盛大に炎をくべるお祭りは今でも日本各地で残っていますし。
 
 谷川俊太郎の『生きる』という詩がネット内でひそかなブームなのだとか。
 私が初めて見たのは小学生の時の国語の教科書だったでしょうか。
 朝のリレーなどと並び好きな詩の一つでした。
 でもなんで今になってとも思いましたが、恥ずかしながらこの生きるという詩を声に出して読んでみると、黙読でなく、周囲に誰もいないことを確かめて声に出して読んでみると恥ずかしいような、照れてしまうようなそれでいて色々な想いや思い出がこみ上げてきてしまうのです。 
 小学校で授業中に朗読させられたこともありましたが、あの時は『生きる』とは何なのかなんて考えたことありませんでしたし。今日も明日も明後日も生きていることに疑いなんか持たなかったし、ずっと同じような日が続くんだろうなって思っていましたから。それにんな事考えるほどほど暇でもありませんでしたから。
 でももう会えない友人がちらほら出始めているこの頃になると、生きるってなっだろ…ってそれでも考えたりもしませんからぱっと出てこないんですよね。
 こーゆーのって聞いた人間の数だけ違った答えが出てくるのでしょうけど。
 命とは、闇の中で揺らめく小さな火、灯、消えそうな火に手をかざしてみることは出来るけどそれも今だけの話で、ずっとそのままには出来ずやがて手を放す時が来ます。
 次に消えそうになってもまた手をかざせるとは限らない、誰もがそんな中で生きているんですね。
 生きるということ、それは…