自分の速さで進む
ロンドンではこぼれたチリソースが原因で異臭騒ぎになり道路封鎖までなったり、ゴルダーズの駅では男性が二階建てバスの下敷きになり消防車が駆けつけたり、日々色々なことあります。
日本でも、もう古いですけどアニメヲタクの女の子が好きな作品に触発されて、父親を斧で惨殺したり、しかも黒いドレスに着替えてというのですから。
ま、この場合どう考えてもその作品ではなく、フィクションとノンフィクションの区別の付かない加害者に原因があるはずなのですが、相変わらずマスコミはお手軽なところに分かりやすい原因をでっち上げて、分かったような顔していますね。
そうやって又有耶無耶になっていくのでしょう。
帰国した友人のブログにガス欠したってありました。
でも友人は車を持っていません。
抱え込んでいることが上手くいってなくてといったことなのでしょう、きっと。
中々に面白い比喩だなと思いました。
何処にいても兎角生き難い世の中です。
後悔と自己嫌悪だらけの昨日、どうにもならない今日、そして出口の見えない明日。
今日と違う明日を想像できず袋小路になりつつあるときってあります。
(いえ友人のことではなく。彼女はまた走り出したみたいなので。)
そんな日々だからこそ、誰かの言葉に傷ついたり、励まされたり。
凹んだりとんがったりなのですが。
それも全て必要なことなのでしょう。
ガス欠から抜け出してまた走りだせる、そんな時の喜びは、やっぱりガス欠に実際ならないと分からないわけですし。
そしたら他にガス欠した人にほんの少しでも優しく出来るし。
ガス欠っていうのは、ま、必要なことだったのでしょうね、きっと。
そして不要になれば、あったことなんて思い出すこともなくなるんでしょう。
必要、不要なんてどうやって決めるのか知りませんが、多分、ガス欠を必要としていた友人を、必要としている人がいるのでしょう、きっとどこかに。多分友人がこれから会う人達でしょう。
人は、誰かが自分を必要と思ってくれる、そんな思いを力に換えて進んでいけるのですから。
多分、ね。