9月24日 土曜日 晴れ 気温 21度
 私の今いる学校では校舎にいる間はずっと名札を付けていなければなりません。
 文房具屋さんで売っているようなピンの付いたセルロイド製のものでうっかりしていると中の名前を書いた紙がいつの間にか落ちてしまいただの透明なセルロイドを付けているという恥ずかしい状態になってしまうのですが。
 名札なんて小、中学校以来に久し振りに付けますので何だか恥ずかしい様な気にもなりましたがこちらの先生に言わせるとそれはとても奇妙なことなのだとか。
 英国では子供は殆ど学校で名札を付けることは無いのだそうです。
 それは子供のうちというのは親の庇護の元にあるということで例え名前があったとしても個人としては認めてもらえず子供という大きな括りでしか見てもらえないのだとか。
 そう、名前を名乗るというのは一人の社会人として責任ある立場にいますという証、だからこそ大人になっての方が付ける機会がずっと多くなるのだそうです。
(もっともその様な海外の考え方の影響を受けてなのかは分かりませんが、今の日本の会社でも名札を付ける所はかなり多くなってきているのではないでしょうか。)
 だが日本は逆に子供のうちは付けていて大人になるにつれて外してしまう。
 それが奇妙だと。他にも宗教観がまるでばらばらとか、愛国心が無いなどともよく言われますが。
 聞いていてそういう見方もあるかもなのね、とも思いましたがやはりそれは外から見た人の考え方だなあという気にもなりました。
 まあそれぞれの社会事情の違いなんて言ってしまえばそれまでですが。
 これは私の考えではなく経済評論家の佐高 信さんという方の書かれたものを拝借したものです。
 
日本とは企業によって成り立っている国であり多くの日本人にとっては会社というものが国や社会の代行をしている。社員とはパーツであり歯車であり部品なのだから個というものは必要とされていない。
 
つまり殆どの人は会社という名の宗教信者であり愛国心にあたるものは愛社精神に取って代わられるのです。
 普段電化製品を使っていて電池なり消耗品を交換する時私たちはそれを同じ物と認識しています。正確に言うと違うのですがまず気にしません。
 名札が要らない理由がこうだからですというのは少し短絡的かもしれませんが。
 だから国を裏切って法を犯すことは出来ても会社を裏切ることは出来ない。悩んだ末にリークしたらつまり社会的正義を貫き会社を裏切るようなことをした人がひどい目にあうという例はいくらでも出てくるでしょう。
 こういう点では封建時代から何も変わっていないのかもしれませんが。
日本では今日も会社教の信者(もはや社員というよりもです)は一所懸命に奉公しているのです。
 それは奇妙なことでは決してありません。
 そのお陰で私のような決して一流階級の人間でなくても海外へ留学することが出来るほど国全体が豊かになれたのですから。
海外旅行が出来るのは一部の金持ちだけという国は今でも世界中にあるというのに。
得たもの失ったものは沢山ありますがそういった現実を見据えて日本を語るなら語って欲しいと思っても無理なのでしょうか?
もっとも私自身にも言える事なのですが。